「阿寒湖のマリモ」と「タンチョウ」が国の特別天然記念物に指定されたのは、1952年(昭和27年)3月29日のことでした。それは、生息地である阿寒郡阿寒町(当時)や釧路市が、「日本の宝」を預かり保護・保全するという重い使命を担った時でもありました。「保護・保全」と言っても、「阿寒湖のマリモ」や「タンチョウ」に関する生態データは皆無に近い状態。どのように「保護・保全」をしてよいのかも分かりません。しかし、誰かが何かを始めなければならない…。その命を受け、未開分野の祖となった人たちがいました。長年謎であった「阿寒湖のマリモ」の生態を少しずつ解明してきた釧路市教育委員会マリモ研究室の学芸員、若菜勇さん。そして世界で初めてタンチョウの人工ふ化・飼育に成功した、釧路市丹頂鶴自然公園の現名誉園長、高橋良治さん。この2人の長年に渡る活動が、ふたつの宝を「保護・保全」する礎となっています。
釧路市丹頂鶴自然公園名誉園長
高橋良治さん
釧路市教育委員会 マリモ研究室
学芸員・理学博士
若菜 勇さん
マリモは、調べれば調べるほど不思議で驚異的な生き物です。
【阿寒湖のマリモ】
1898年(明治31年)に初めて発見され、その後札幌農学校(現北海道大学)で研究が開始。同校の学生によって「毬藻(まりも)」と名付けられました。1921年(大正10年)に国の天然記念物に、1952年(昭和27年)に国の特別天然記念 物に指定。この間、森林伐採や水力発電による水位変動、湖水汚染などで生育域が減少し、1950年(昭和25年)に地元住民による保護組織が誕生。日本の自然保護運動の先駆けとなりました。
着任早々、氷下の阿寒湖に潜りマリモを観察し続ける日々…。
若菜さんが北海道大学大学院博士課程を終え、マリモ研究室の初代学芸員として着任したのは1991年4月。33歳の時でした。「たまに来て観察しても生態は分からない。誰かが阿寒湖で専従しなければマリモの解明と保護・保全は難しい思い、研究室入りを決めたのですが…。実際に取り組んでみると、思った以上にとんでもない仕事でした。まるで暗闇の中を手探りで進むような。(笑)」海藻の化学生態学を専門にし、あらゆる藻類を見てきたはずなのに、阿寒湖のマリモだけは、ほかのどんなものとも違う。「神秘」と言っては科学者の名折れ。しかしすべてが「神秘」からのスタートでした。
球形マリモが生息する湖は現在世界にたった2カ所だけ。
若菜さんの観察・研究によって、次第にさまざまな事が分かり始めました。たとえば、かつては「直径20センチに育つまで400~500年もかかる」といわれていましたが、若菜さんは5年で10センチ以上育つことを確認。また、「大きくなると湖底で揺れ動き、同じ大きさのマリモにふるい分けられる」ということも確かめました。球形マリモの群生地は、現在世界に、阿寒湖とアイスランドのミーバトン湖にしか存在しません。阿寒湖は、その地形、湖底の地形、そして風の流れ、川やミネラルを含んだ湧き水の存在など、すべてがマリモの生育に適していたのです。雄阿寒岳と雌阿寒岳に囲まれているため、北に向けて適度な風が吹くことひとつを取っても、マリモが球形になるための絶妙な環境でした。これら複数の偶然のうち何かひとつでも欠けていたら、阿寒湖にマリモは存在しなかったであろうと若菜さんは言います。
地道な調査・研究によって阿寒湖のマリモ減少に歯止め。
また若菜さんは、1994年からマリモの遺伝子研究にも着手してきました。その過程では、現在世界に分布する200カ所余りのマリモは、すべて日本列島のマリモが起源であることも明らかに。マリモを食べた水鳥たちが各地に広めたと考えられます。これも貴重な成果ですがいわば副産物。若菜さんは自らの本務を、「阿寒湖のマリモの保護・保全計画確立」と言い切ります。現在、減少は食い止めましたが、群生増加はこれからの課題。群生地に流れ込む川の上流域保全や、すでに消えた阿寒湖内のほかのマリモ群生地を復活できないか?など、今後のテーマは尽きません。「阿寒湖のマリモは、調べれば調べるほど、不思議で驚異的な生き物だと驚きます」。21年目の付き合いとなっても、マリモは未だ若菜さんを感嘆させる存在です。
何度もくじけそうになってそのたび周りの人に助けられて
【タンチョウ】
日本、ロシア、アジアに生息し、日本では北海道東部が主な生息地。明治に入り激減し、絶滅したかに思われましたが大正13年に釧路湿原で十数羽が確認され、昭和27年の調査では33羽でした。その後、地道な保護活動により現在は1,300羽が確認されています。1935年(昭和10年)に釧路湿原の一部とタンチョウが国の天然記念物に指定されると地元の人々らによって保護会が結成。1952年(昭和27年)国の特別天然記念物に指定。
手探りの飼育 始まり夫婦愛の強さを知って感涙。
タンチョウを絶滅の危機から救うため、「釧路市丹頂鶴自然公園」が開園したのは1958年(昭和33年)のことでした。そこに初代公園管理人として就任したのが、当時22歳だった高橋さん。「鳥の飼育なんて自信がない。でもせっかくの仕事だし、2年だけ頑張ろうと思ったのが、結局50年以上になった」と笑います。開園当初確保した5羽はすべてオスでしたが、仲間を呼ぶ声で自然界からメスが飛来し、つがい形成をしました。その時、たまたま片翼に故障があり飛ぶことができないオスと、つがいになった野生のメスの姿に、高橋さんは心を打たれました。「メスが、上空を旋回しながら“一緒に行こう”と繰り返し言う。そしたらオスが、“俺は行けない。俺は飛べない”と言う。かわいそうだったな。そしたらな、とうとうメスが戻って来た。俺も涙が出た。1度つがいになったタンチョウの愛情は、すごいもんだなぁと驚いた」。
世界初の人工ふ化成功には感動の秘話がいくつも…。
その後も試行錯誤を重ね、1970年(昭和45年)には世界で初めてタンチョウの人工ふ化と育雛に成功。この時も高橋さんは生命の神秘に触れました。「人工抱卵中に“ピーちゃんおはよう”と毎日声を掛けていました。タンチョウの卵は32日でふ化します。そして27日目くらいになると、“ピーちゃんおはよう”と言う俺の声に反応して卵が揺れるんだ。そしてその次の日くらいには、“ルルルー”と返事をするようになる。いやぁ、あれはめんこかった」。こうして人工ふ化で産まれたひなを、高橋さんが裸になって抱いて育てた話しも有名です。最初は温度・湿度が合わずひなが死に、そのたび高橋さんも切迫していきます。「ある時産まれたひなを両手に乗せ胸に抱き“頼むから死なんでくれよ”と言っていたら、俺の首のところでコトッと眠った。抱いた時の温度と湿度がちょうど良いと、やっと気付きました」。
支援者や仲間たちとともに歩んだタンチョウ保護人生。
1988年(昭和62年)に、高橋さんをクローズアップしたNHK特集「鶴になった男」が放送されると、高橋さんの取り組みに脚光が当たりました。しかし高橋さんは、「1人では何もできなかった。周りの人に助けられたおかげ」と言います。資金不足でタンチョウたちのえさから入場券の印刷代にも事欠くと、神戸市の白鶴酒造に協賛金支援を掛け合ってくれた人がおり、白鶴酒造からの協賛は20年間も継続されました。また、国や北海道から派遣されていた公園職員に、「根釧原野を上空から観察したい」と言うと、自衛隊航空機での特別調査が実現。ひなを抱いて寝るための布団を差し入れてもらったことも…。これまで高橋さんがかえしたひな、育てた約60羽のタンチョウ。そして一緒に月日を過ごした仲間たち…。みなの面影が、今も高橋さんの胸に刻まれています。
釧路市丹頂鶴自然公園
1年中いつでもタンチョウを見る事ができます。4~6月はひなにも会えそう。