オホーツク人の存在を世に知らしめた「モヨロ貝塚」。
その発見者は青森県出身の理髪師、米村喜男衛(きおえ)さんです。
幼い頃から考古学に興味を持ち、理髪店に勤めるかたわら考古学や人類学に触れていた米村さんは、21歳の時にアイヌ研究を思い立ち、運命の地、北海道網走へと向かいました。
網走に着いた米村青年がまちを流れる網走川を観察していると、河口砂丘で思いがけないものを発見しました。
それは巨大な貝塚。しかもそこから出土した土器は縄文系とも違う新種で、さらに先で古代の竪穴住居跡も見つけました。
米村さんはここを「モヨロ貝塚(※モヨロとはアイヌ語で入江の意味)」と命名し、仕事のかたわら遺跡研究へと没頭してゆきます。大正2年(1913年)のことでした。
太平洋戦争時は「モヨロ貝塚」が軍需施設によって破壊される危機にも直面しましたが、米村さんの熱意により工事は中止され、モヨロ遺跡は守られました。
さらに昭和22年(1947年)には東京大学や北海道大学からなる「モヨロ貝塚調査団」が結成され、米村さんがたった1人で続けてきた遺跡調査は大きく飛躍します。
その成果を見守りながら、米村さんは晩年まで研究を続けたそうです。
その発見者は青森県出身の理髪師、米村喜男衛(きおえ)さんです。
幼い頃から考古学に興味を持ち、理髪店に勤めるかたわら考古学や人類学に触れていた米村さんは、21歳の時にアイヌ研究を思い立ち、運命の地、北海道網走へと向かいました。
網走に着いた米村青年がまちを流れる網走川を観察していると、河口砂丘で思いがけないものを発見しました。
それは巨大な貝塚。しかもそこから出土した土器は縄文系とも違う新種で、さらに先で古代の竪穴住居跡も見つけました。
米村さんはここを「モヨロ貝塚(※モヨロとはアイヌ語で入江の意味)」と命名し、仕事のかたわら遺跡研究へと没頭してゆきます。大正2年(1913年)のことでした。
太平洋戦争時は「モヨロ貝塚」が軍需施設によって破壊される危機にも直面しましたが、米村さんの熱意により工事は中止され、モヨロ遺跡は守られました。
さらに昭和22年(1947年)には東京大学や北海道大学からなる「モヨロ貝塚調査団」が結成され、米村さんがたった1人で続けてきた遺跡調査は大きく飛躍します。
その成果を見守りながら、米村さんは晩年まで研究を続けたそうです。
[写真上:米村さん]
モヨロ遺跡を発見した米村喜男衞さんは、生涯オホーツク文化の研究に没頭しました。
[写真下:オホーツク土器]
最盛期のオホーツク土式器はつぼ型で粘土ひもの貼付模様があります。